Thursday, December 4, 2014

間違えること、探すこと(訂正した)

最近、二つの経験があって、心強い励ましをいただいて、間違えることと自分の道探すことについての考えが生まれた

一つ目は、口頭試験の失敗だ。二週間前に、口頭試験を受けた後で、発音とピッチの間違いがいっぱいあったし、あまりスムーズじゃなかったから、試験がよくなかったと思った。突然、日本語のS先生に「すみません」と言いたかった。というのは、先生は今年の教師じゃないけど、今でも私に気長に教えて下さっているからだ。毎週ドラえもんのように優しい切な先生と楽しく話させていただいているのに、口頭試験がよくなかったから、本当に恥ずかしかった。

そして、S先生と次に会っている時、私は「先生、I am sorry to let you downは日本語で何と言うの?」って先生に聞くと、先生が教えて下さった「試験がよくなかったと思います。先生をがっかりさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」ってS先生に謝った。けれども、さすが心強い先生なので、私を許して下さったばかりでなく、頑張ったから、大丈夫で、そして、それは地図の問題って先生に言われた。地図の問題ということはもちろん冗談だったけど、先生の答えを聞いて気持ちが楽になった

今週の日曜日、日本語の中間試験の成績をいただいて、あまり悪くなかった。笑いながら、S先生に試験を持っていってみせて、先生のおかげだって言った。これは、お世辞じゃなくて、心からの感謝だった。口頭試験のコメントシートを見て、先生はラウさんは日本語の書くことや単語と文法を使うことのレベルがとても高くなったけど、ピッチの問題がまだランダムだから、ちょっと変で、だれかともっと練習した方がいいって私に教えて下さった。私は「先生?」って聞くと、先生は「はい、手伝いましょう」って答えた。

私は気があまり長くないし、困らされたくないが、先生になれば、多分私のように怠惰で頭が良くない学生たちは二度と手伝ってあげたくないと思うかもしれない。とは言え、そんなにダメな学生があまりいないだろう

実はどうしてか分からないけど、練習をかなり頑張っても、日本語を話すのがまだ下手で、ピッチが信じられなく悪い。よく、本当に恥ずかしいと感じている。けれど、優しい先生や勉強への興味のおかげで、話し続ける勇気を今でも持っていると思う。

二つ目の経験は、私の日本語作文と関係がある。時間が充分にあるかどうかを問わず、毎週興味があるトピックについて日本語で書いているが、すごく楽しい。そして、復習のために勉強した語法と単語を使ったり、様々な授業で習っていない文法と言葉を使ってみたりするから、いつもいっぱい間違えてしまう。幸いにも、今学期、親切この上ないM先生に毎週作文を直していただいている。或る日、新しい作文を書いている時、先生と楽しく話し合うのを思い出して、先生に感謝したかったから、心からの謝意の言葉を書いて先生にメールでお送りして、すごい返事をいただいた

「ラウさんは自分から学ぼうという気持ちが強くてすごいと思います。書いている文章も、2年生のものとは思えません!間違えることは当たり前ですし、間違えながら私たちは成長していくと思いますので、どんどん間違えてくださいね!」と。 

確かに、毎回、私は作文でいつもいっぱい間違えてしまうし、分かりにくい部分がきっとあるから、よく先生と三回、四回ぐらい直さなければいけない。まず、基本的な文法と単語の間違いを直して、次に、私の言いたいことや書くスタイルに合う言葉を探して選ぶ。最後に、観点の一貫性や段落の順序について話し合う。私の作文を直すことは先生の時間を多く消費してしまうけど、M先生は私に自分がバカのようだという思いを決してさせなかったし、かつ私をまだ気長に教えて下さって、新しいことを学べるように、私に作文を間違えてもいいと思わせて下さった。作文を直している時、先生が間違いを直して下さるので、プロのエディタのような先生の方が、私よりずっと大変なようだ。

思うに、勉強した文法と言葉だけを使ったら、間違いが少なくなるかもしれないけど、むしろ、新しいのを使って挑戦して、自分の書くスタイルをだんだん作っていきたいのだ。言い換えれば、間違いを通して、自分に合ったことを探せるし、成長出来ると思うのだ。

しかし、一部の文化や社会では、間違えることは本当にダメだと思われているようだ。特に東アジアの文化かもしれない。東アジアの文化では、一部の両親は、いつも子ども達に様々なことを完璧にさせて、よく他の人たちに自分の子どもについて自慢しているらしいのだ。香港では、一部の小学生や中学生は、悪い成績のせいで自殺してしまった。そして、一部の子ども達は、いかに若くても、大人と同じような、物事が完璧に出来るという成功の定義を持っている。成功するための大志を持っていることはいいことだけど、自分や他の人に厳しすぎるとあまりよくないんじゃないだろうか? 

それに、一部の人は間違えないように、いつもコンフォートゾーンの中のことだけしている。つまり、間違いへの恐れは、新しいことをやってみる意欲や勇気を抹殺する。いくつかのことはもちろん間違えてはいけないけど、間違えても大丈夫な機会は大切で、そこから楽しく学んだ方がいいと思う。さもなければ、人生は詰まらないんじゃないだろうか?

ところで、秋休みに、ばらかもんというすごく面白いアニメを全部楽しく見たばかりだ。そのストーリーは意味が深いと思っている。初めに、主人公の半田清舟という東京の若い書道家は、書道の賞を取ったけど、授賞式で書道展示館の館長に、自分の作品は独特なスタイルがないと酷評された。半田はとても怒って、館長を殴ってしまった。懲罰として、半田のお父さんは半田を五島というあまり開発されていなかったところに行かせて、「自分の人間性で欠けている部分」を見つけさせた。 

最初、半田は島の人たちはすごく変だと思っていたけれど、その島にいる間、面白くて優しい島民と可愛い子供の琴石なるちゃんと友達になって、いつもみんなに世話をしてもらって、人間関係の暖かさをだんだん感じられるようになった。それから、自分の書くスタイルを徐々に分かるようになった。

私の一番印象的なところが二つある。一つは、半田が書道の楽しさが分かったことだ。半田がここに来て初めて自分のスタイルで作品を書いて、書道発表会に参加した。今回、作品がよくなったけれど、半田より若い学生に負けてしまった。前に独特なスタイルがなくても賞を取れたが、五島に来てから、毎日ちゃんと頑張ったし、自分の作風が出来たけど、試合に勝てなかった。半田はすごく失望して、感情に任せて悩んでいると、書道は楽しいんじゃないのかと島の友達に聞かれた。突然、半田は一番大切なことが何か分かった。自分が好きなことなら、賞を取っても取らなくても、何でもちゃんとやって、その過程を楽しむべきだ。そうすれば、満足感をもらえるはずだ

もう一つのところは、最後の書道発表会だ。作品の締め切りの前に、半田は何を書けばいいか全然分からなかったけど、島民に皆の名前を大切な木板で書いてあげて、石で堰を建ててあげたことで、アイデアが出来た。最後に、皆の名前を堰の一つ一つの石の形状のように書いた。というのは皆は形状が違う石のようで、性格が違うけど、自分が出来ることをちゃんとして、皆の努力が集まってから、堰のようにきちんとした人間関係を築くことが出来たからだ。つまり、島の友達は半田にとって大切だし、そして、皆の強い関係や相互援助が見えた。最終的に、賞を取れなかったけれど、様々な経験を通して、半田は自分の書道の作風ばかりでなく、大切なことも見つけられただろう。

思うに、書道の練習や島民の簡素な暮らしは人々の日常と似ていて、毎日、似ていることをやっていて、よく詰まらなそうだけど、情熱を持って、ちゃんとすれば、成果がだんだん見えると信じている。けれども、成果ということは、人々が様々な定義を持っているから、とても曖昧だろう。一部の人は成果はお金や仕事の高いポストなどのことだと信じているが、一部の人は無形のことを成功の定義にしていて、例えば、困っている人を手伝うし、家族や友達に希望や勇気を与えてあげるなどのことだ。他の人から見ると、その人が得る利益はあまりなさそうだけど、その人が得る満足感は、同じ価値観を持っている人は、説明されなくても、感じられるし、分かるようだ。

二十五才の私は常勤の仕事をしたことが全然ないから何人かの人に大人の現実的な世界があまり分かっていないと言われたかに私の考えはよく楽観的で理想的すぎるし常勤の仕事で間違えてしまとどなるのかあまり分からないけどまだ年寄りじゃないのでしい人生を作るべく今から々なことをやってみて間違いから学んでおいて自分に合道を探すよにしていきたいと思う

2014年12月4日、M先生とS先生のおかげてやっと訂正した。
クリス.ラウ

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