先週の木曜日、教授から、ある期末レポートのコメントをもらった。「レポートで面白い問題提起をしていて、中間レポートと比べると、よくなってきました。だが、三年生の時の大変で大事な試験に合格できるように、まだ色々な理論や、その学者の議論や、理論の背後にある推定などをもっと深く理解しなければいけません。」実は、私はあまり理論的じゃないから、教授が言ったようになるのは、私にとってすごく難しい。
それで、今年何人かの人がその大きな試験に不合格して、勉強し続けられなさそうなことを思い出した。言うまでもなく、来年の大きな試験について息も乱れるほど心配していた。朝六時ぐらいにそのメールを見て、朝ご飯をあまり食べられなかった。
そして、朝の日本語の授業が終わった後で、ストレスを解消してみるために、一人で町を散歩したかった。前に観光小冊子で紹介されていた聖堂を思い出して、行ってみたかった。大変な時、やはり静かな場所で祈りたい。そこで、聖堂に行った。
その聖霊病院聖堂は病院の横にあるが、中に入るために、病院の入口を通り過ぎなければいけない。
急に、一つのことを感じた。私が心配していた試験は大事なことは大事だが、病院の一部の患者と比べると、そんなに大変なことじゃないはずだ。その人たちは、翌日の日出を見ることができるかどうかが分からずに、毎日、命のために頑張っているのだ。
私が試験に成功できなかったら、いわゆる「一番悪い結果」が学校から出て、香港に帰って、他の道を探すということだが、一部の患者はその挑戦に成功できなかったら、結果は・・・
患者との比較で言いたいことは、頑張らなくても大丈夫だということじゃない。代わりに、もし一生懸命頑張って、何度もやってみてもまだできないなら、つまり、制限があるとしても、希望を持って、将来へ向かって歩き続ける方がいいんじゃないかと思う。一歩退いてみて、人生という点から考えると、結構長い人生と比べて、一度成功できなかったとしても、将来振り返ったら、おそらく思ったよりも大切なことだろう。
それから、聖堂から歩いてバス停に向かって行く時、私は自分に一つの質問をした。「もし学校から出なければならなくなったら、私が一番気にするのは何?」と。まじめに考えて、答えが出てきたと思う。研究できないことじゃなくて、他の人からのプレッシャーと期待であるようだ。なぜかというと、私が研究が好きじゃないというわけじゃない。もしこの大学で勉強し続けることができなくても、将来香港や他のアジアの国の大学にまだ申し込めるはずだ。一方、他の人のうわさはプレッシャーを与えるということをだんだん感じてきた。
香港に帰るたびに、何人かの人はいつも「プリンストンの大学院生が帰ってきた!すごい!」と言う。その上、一部の人のお世辞は本当に言いすぎで、気持ちが悪い。それに、もし私が香港に帰らなければいけなくなったら、その人たちが「クリスはダメ人間」とか「やっばりダメだね」と思うようになるんじゃないかと心配した。実はこういう心配をすることは本当にバカだ。本当に心から気が合って、仲が良い仲間なら、そういう酷いことは決して言わない一方で、単に学歴によって私のことを判断する人は人生における味方じゃないだろう。そう言えば、どうして後者が批判することを気にするのか?そう考えると、無意味だろう。
もう一つの心配なことはじいちゃんだ。じいちゃんはもちろん私を大切にしてるが、やはり伝統的な考え方で、よく「よかったなあ、プリンストンに入れた!あなたを誇りに思うし、光栄だと思うよ!」と言う。もしじいちゃんをがっかりさせてしまったら、どうしたらいいのか全然分からない。
幸いなことに、両親は私の大学院での勉強について今日までプレッシャーを全然かけないでくれた。ある日、私はかあさんに電話して、心配した試験のことについて述べた。かあさんをがっかりさせてしまうと思ったが、かえってかあさんは私を励ましてくれた。「あなたがその試験に合格できるかどうかによらず、私たちはいつでも、どんな場合でも、あなたをしっかり支えてることを忘れないでね!頑張ったならば、結果はどうなっても大丈夫だよ!」と。
それを聞いて、私は本当に感動していた。
確かに、周りにいる人たちは全て私たちのいい仲間だというわけじゃないが、自分にとって一番大切な人がだれかとはっきり分からなくてはいけない。すると、大切じゃない人たちの雑音みたいな世間の口を気にしないようになるんじゃないだろうか。
ところで、かあさんは「もし香港に帰らなくてはならなくなるにしても、イエスはまだ慈愛やご加護を続けてくださるよ。命の主なので、きっとあなたに合う扉を開いてくれるね。」と励ましてくれた。キリスト教徒として、確かにそう信じている。しかも、残念だが、何か困難がある時、まだ心配するようになりがちだ。というか、大変な時は、信仰が何か、イエスを信頼することとは何か、自分が本当に何を信じてるかがどんどん体験して分かるようになるきっかけになるわけだ。
信心というのは一体どういうことだろう?
私にとって、信心とは自分で頑張らなくてもイエスがいい大学やすばらしい仕事などを下さるということでは決してない。代わりに、するべきことを頑張りながら、人生を楽しんで、成功しするにせよ、失敗するにせよ、イエスの慈愛やご加護に変わりはなくて、イエスがいつも私に合った道に自分を導いて下さるということだと思う。また、一歩退いて考えると、難しい時というのは、将来のいつか、だれかに自分の経験を話すことで、それが励ましになる可能性もきっとあると信じてる。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(聖書・詩篇23章1−4節)
クリス ラウ
2015年6月15日に書いて、だいたい訂正した


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