Friday, March 27, 2015

思い出・忘却:歴史と人生(たいてい訂正した)

中学校の二年生から、歴史が好きになって来たが、いつも政治や経済や商業などの歴史より、社会の歴史や普通の人々についての史料や口述歴史や日記を勉強するのがすごく楽しいと思っている。歴史の学生として、人々がは自分のストーリーを忘れないでいられればいいと思っているけれど、これはちょっと無理なことだろう。

この九年間、歴史を勉強しながら、様々な、嬉しいことも、厳しいこともなども経験して、歴史と人生は本当に似ているとだんだん分かってきた。なぜなら、両方とも思い出か、ないしは忘却で争っているからだ。私たちは、よく、自分の関心や必要性によって、歴史や自分の人生の過去を主観的に構築したり、思い出を選択的に覚えたりしているようだ。つまり、過去の「肖像」は、人々の主観的な視点や関心や目的によって描かれた。なので、歴史を論じることを通して、今の現状をちょっと見ることができる。

そして、一部の人は歴史と今と関係がないと思っているけど、実は有名な作家のジョージ.オーウェンが言った。「過去をコントロールする人は、未来をコントロールする。現在をコントロールする人は、過去をコントロールする」と。それで、自分の人生も、どんなことを覚えているかの選び方や、過去の経験から学んだことなどによって、今と将来の人生の部分を作るんじゃないだろうか?これは絶対的な黄金律だとは言えないかもしれないけど、これを通して、私たちの過去と人生への態度を表せると思っているからだ。


I) 人生と似ている歴史
歴史の川の中で、忘れられたことの方が人々の記憶に残っていて、研究されたことより多くあるだろう。人々の日常生活は当然ながらあまり記録されないけど、一部の大切な政府や国民から見ると恥ずべき事件も故意に忘れられている。言うまでもなく、二十世紀にそんなことがたくさんあった。以下、二つの例の短い回顧を通して見てみると、歴史のメモリの主観性が見えるはずだ。

覚えられても言えないトラウマ:中国の1950年代の飢饉
1958年から1962年までの四年間の間、中国では、戦争も自然災害もあまりなかったが、その時、ヨーロッパやアメリカであまり知られていない飢饉が起きた。大躍進政策の政治指向の目標のせいで、様々な、無責任で問題がある経済や農業や工業や社会の組織化などの政策が実施された。そのせいで、全国、特に農村地区で2000万人から5000万人ぐらい飢饉で亡くなった。実は、その間に亡くなった人の数は今まで議論の余地がたくさんあって、史料の種類や統計の方法によって飢饉による死亡者数は違う。

とにかく、2000万人か5000万人かを問わず、両方とも私にとって想像しにくい数だ。2000万人が亡くなってから、何千万の家族が悲しみを経験したのだろうか?何千万人の両親が子どもを失ったのか?そして、何千万人かの子どもが両親や兄弟を失ったのか?私は全然想像出来ない。

それに、一部の人類学者は中国の様々なところで大躍進政策の被害者と被害者が持つトラウマについて実地調査をしている時、その飢饉の被害者たちに共食いが起きたと教えられた。詳細内容は本当に怖かったので、少しだけ言うにとどめておこう。生き残った被害者によると、一部の人は飢えすぎたから、幻覚を見て、異常な精神状態で自分の家族を殺して、共食いしてしまったが、一部の人は餓死した家族の遺体を共食いしてしまったそうだ。私は初めにそんなトラウマを聞いて、驚きを禁じ得なかった。

その事件は現代中国のひどい飢饉と悲劇だと言えば、だれも否定出来ないんじゃないだろうか?しかし、今まで中国の政府は飢饉と呼ぶ代わりに、その事件がいつも「三年自然災害」や「三年困難時期」や「三年糧食関」など呼ぶようにしている。つまり、政府は自分の責任を全然認めないばかりでなく、政府の態度とあって、生き残った被害者の自身の経験と思い出をよそに、1980年代まで、政府はずっと餓死した人がいないと公式に発表してしまい、中国の媒体や市民は政府に飢饉のことを包み隠させられていた。

その例を通して分かったことは、一部の思い出は人々に忘れられないけれど、その思い出は何らかの理由で、公に言う事がタブーになり得るということだ。

わざと無視された人々:日中戦争の日本の民間人
社会史を研究している学生として、私は戦争の時のグローパルの経済や国際関係などの歴史があまり分からないけど、私にとって戦争史についての研究で一番難しいことは様々な政策とか戦略とか国際関係などではなくて、代わりに、庶民の歴史と庶民の戦時責任ということだと思っている。というのは政府と知識人が書いた史料の方が、庶民の史料より残るはずだし、戦争の時、庶民の行動や信念などいつもより政府に影響されるようだからだ。

第二次世界大戦に日本が他のアジアの国にしたことのせいで、ここ数十年間、いくつかの国と日本との関係はあまりよくないようだ。そして、よく、人々の他の国や民族へのイメージはあまり具体的じゃないようだ。だから一部の人が嫌いなら、その人達の民族は全部悪いと思っているらしい。つまり、戦争の思い出のせいで、一部のアジアの国は日本の民族があまり好きじゃない可能性があるかもしれない。確かに、戦争の被害者とか慰安婦とか軍用手票とかその間の歴史の論述などの問題は今まで解決されていないといえども、その時の日本の民間人も政府や軍事官僚と同じ責任を持たなければいけないのだろうか?

最近、日本の戦時の庶民日記とか戦争についてのインタビューをちょっと読んで、結構感慨深くなってしまった。学者にインタビューされた日本人のお年寄りは、その戦争について聞かれて、反応が各々違った。一部の人は、最初戦争の時の記憶を教えてくれると約束したけれど、インタビューをしても、何も答えなかった。一部の人は、自分の記憶をシェアーしてくれている時、よく遠い目をして、過去の記憶にどっぷりつかって、「どうしてそんな信念(例えば、東アジアの繁栄のために、戦わなければ行けないということ)を心から信じたか全然分かりません」と研究者にも自分にもささやいた。その時、研究者は頷いて、理解を示して、インタビューをされる人を現実の世界へ引き戻さなければならなかった。戦争で亡くなった兵士の家族の中には、その兵士が生前戦場で撮った写真や植民地から取った土などの残したものを大切にして来たけど、その残した物に曖昧で複雑な気持ちを持っているようだ。なぜなら、それは最愛の家族の思いを乗せる物なのだが、その一方では、残った物全部は自分の家族が他のところに侵入した証拠だからだ。

その上、日中戦争の前の数年から、政府からの命令で一部の中学校の先生は、16歳から19歳までの学生に満蒙開拓青少年義勇軍という計画に参加させてしまった。その青少年たちは後で戦争の道具にさせられて、一部の若い義勇軍は戦争で亡くなった。陳野守正という研究者が戦争が終わって何十年後かに、学生を義勇軍に参加させた先生と面談すると、一部の先生は泣き続けて仕方がなくて、自分をまだ許せなかった。

確かに、戦争は侵入されたところで、たくさんの被害を与えてしまった。けれども、戦争は銃後という国内戦線の国民の人生にも焼印のような、治せないトラウマを押してしまった。一部の研究者によって、日本の政府は戦争のトラウマの記憶を公の問題にも、公衆議論にも全然しなかった。そして、心の深すぎる怪我を守ることや隠すことなどするしようとして、一部の人は戦争のつらい記憶を思い出さないようにしている。その戦争と直接関係がある世代は、多くの人はもう亡くなったようだが、その世代のトラウマを、いまさら治せるかどうか答えることは難いんじゃないだろうか?

私は作文の結論で、いつも自分の考えを書いているけれど、今回の課題が複雑すぎるから、何を書けばいいか全然分からない。有名な歴史学者のピーター.パークがお聞きになった三つの質問をこの部分の結論にしたいと思う。「だれがだれに何を覚えさせるか?それはどうしてか?だれがだれに何を忘れさせるか?それはどうしてか?だれの過去の論述が記録されて、保存されたか?」と。

一部の人は歴史と自分の過去を忘れたままでもちゃんと生きていけると思っているようだ。けれども、様々な場合で思い出は自分のことばかりでなく、いつも政治や社会や歴史などの背景と強い関係があるんじゃないだろうか?さもないと、教育やメディアや宣伝などを通して構成された社会としての価値観とか、過去と現在の社会としての理解のし方とか、様々な社会規範に私たちの個人的な思い出や意識や感情などのことは社会化されたのだろうか?前者と後者とどちらが正しいかを問わず、歴史が分からないと、自分の思い出の主観性にあまり気が付けないようだし、自分の考えの出てくる軌跡が分かることが出来ないわけだ。人々はそれを分かっているかどうかあまり分からない。それに、私たちの歴史への態度は現在と将来に影響すると信じている。つまり、思うに、今より良い将来に向けて歩むために、過去を大切にするべきだ。


II) 歴史と似ている人生
私が歴史が好きな一つの理由は、歴史は人生と似ているということだ。人々は歴史と将来を作るとよく言われるけれど、時の流れも時空間で人々を前に押す。つまり、歴史も、人生も、私たちがほしいかほしくないかを問わず、時間が流れている限り、明日に進んで、「今日」ということは翌日には歴史になる。それに、その過程の中で、記憶も、忘れたこともどんどん多くなるに決まっている。その上、数えきれない場合に、追憶と忘却は複雑なことになる。自分の記憶は自分が支配出来ると思いがちだが、本当は、支配出来ない場合もよくあるんじゃないだろうか?

その上、日常生活であまり気付いていなさそうだが、実は私たちは宝物のような大切な記憶を忘れるのと、一部の人に忘れられるのを気にして心配するところもあるんじゃないかと思う。プリンストンに来ると、香港に何かドラえもんと関係あるニュースがある場合に、いつも友達にメールで知らせてもらう。例えば、ドラえもんの香港の声優さんが亡くなって、そのニュースをいい友達にすぐ教えてもらったし、ドラえもんを特集した雑誌が出版されると、友達はすぐ買ってくれたし、最近、ドラえもんの車が観光スポットになったので、友人にその車の写真をたくさんもらった。私にとって、一番感動することは様々な面白い情報やドラえもんの贈り物をもらうことじゃなくて、代わりに、香港にいなくても、友達と毎年二回、三回しか会わなくても、いい友達は私をまだ忘れないでいてくれることだ。人々は多分忘れてほしくないと思っていると共に、大事な思い出を保存したがる傾向もあるようだ。

重い思い手:おばあちゃんの葬式
去年の六月に、おばあちゃんは亡くなったが、私は夏休みに香港に帰った後で、葬式で祖母の思い出をみなとシェアするためのスピーチを書くために、子供の時におばあちゃんと過ごした生活の経験を思い出そうとした。両親の仕事のため、私は生まれてから、五才まで、祖父と祖母と一緒に住んでいたから、一緒に生活した楽しい思い出がいっぱいある。スクリプトを書く前は、子供時代のことは思い出しやすいと思っていたけど、そうではないとすぐ分かった。

いくつかの複雑な理由で、おばあちゃんが生きていた最後の五年は、あまりおばあちゃんと会えなかった。それで、おばあちゃんとの大切な思い出をだんだん思い出せなくなってしまった。私は、その時、コンピュータを眺めるばかりで、スピーチに何か書きたかったけど、全然書けなかった。

幸いにも、母は私の横に座って、おばあちゃんが作ってくれた料理とか、教えてくれた童謡とか、おばあちゃんと私とよく一緒に行っていたレストランとか、一緒に遊んだなどの私の幼少期のことを教えてくれて、私の記憶を呼び覚ましてくれた。母の話を聞きながら、目が潤んで、涙が流れて仕方がなかった。なぜかと言うと、どうして私はそんなに大切な思い出も忘れてしまったのか全然分からなくて、私を大切にしてくれたおばあちゃんに謝りたかったからだ。

私の頭で延々ともつれ続けたのは過去の静かな思いだった。自分をあまり許せなかった。とは言え、歴史の学生でも大切な記憶を守れないこともあるはずだ。これは、仕方がないことなんじゃないかと思う。歳月が流れながら、一部の記憶も徐々にぼけて無くなってしまう。人間としての私たちはよく覚えていたい記憶を覚えていられないが、忘れたい思い出を忘れられないので、結構皮肉だ。言うまでもなく、政治や社会の大きな事件の記憶は、よく政府によって操作されるが、自分自身の人生の思い出も必ずしも守りやすいわけじゃない。それは避けられないことなんじゃないだろうか?

ところで、葬式に、よく言われる言葉で、「〜さんは亡くなりましたが、みんなの心で永遠に生きています」という詩意ある辞句なんじゃないだろうか?けれども、一年、二年、十年、三十年と、時間が流れると、様々な思い出を持ちにくくなるんじゃないだろうか?そして、私たちを覚えている人たちが皆亡くなったら、だれも私たちを覚えていないわけだ。

しかし、記憶がなくなっても、一部の人たちに受けてもらった影響は、私たちの人生でまだ残っているかもしれない。思うところ、人生の中で、意図的かあるいは意図的じゃないか、に関わらず他の人にもらった感覚や教えるのがあり、反対に、自分が他の人にあげられる影響もあるのだろうか。つまり、記憶は葉のように、脳は樹のように、葉が枯れ落ちて、その土で樹の栄養にだんだんなってきたようだ。何年も後で、その落葉は見ることができないけれど、盛んに生い茂る樹は葉の存在の否定すべからざる証明になるんじゃないだろうか?私はおばあちゃんにもらった影響もあると信じている。

ゆったりしゃべること?大事な勉強すること?
大学生の時から、専攻はいつも歴史なのに、歴史の勉学についての基本的な質問に今でも答えられない。例えば、歴史を勉強する最高の目的は何か、歴史を学ぶのを通して今より良い将来が本当に作れるか、どう作ればいいかなどの問題だ。答えられないにせよ、歴史の勉強と人生の省察と関係を作るのは、絶対にいいことだと思っている。私の今の状況はそのゴールまでの距離はまだ遠いけれど、様々な反省をしてきて、前よりよくなってきたかもしれない。特に人とのコミュニケーションについてだ。

中休みの時、図書館で意味があまりないことをしている時、「一緒にコーヒーを飲まないの?」と母語が広東語の職員のVさんに聞かれた。「今?」私はちょっとびっくりしてしまった。そして、カフェに話しに行った。私たちはずっと前から会うつもりだったのに、都合がいつも悪かった。

実は、私たちの専門は全然違うので、話したトピックは全然学術的じゃなかったけれど、かなり楽しかった。その方は、長期間香港に住んでいたので、香港の文化や社会をかなり理解している。コーヒーを飲みながら、互いの留学の経験とか、香港の問題とか、彼女の香港の大学に勤めていた経験とか、アメリカの生活とか、文化の比較などのことについて喋った。

私は十代の時、学術的じゃなくて、ただの日常生活のトピックに興味があまりなかったから、一部の人と喋っている時、ろくに聞かなかったし、そんな時は時間の無駄だと思ってしまった。けれども、歴史をもっと勉強すると共に、人々のストーリーに興味を持つようになった。なぜなら、歴史と人生は似ているものだからだ。歴史の人たちも、今の人たちも、考え方とか、自分と社会の経験への理解など、上記の社会化の過程にほとんど影響されたんじゃないのだろうか?つまり、様々な人たちと話すことで様々な時代と社会の文化を知ることが出来るはずだ。

それに、歴史では過去の人々や国や文明などの様々なことを勉強して、今現在より良い未来を作ろうとしているが、人生も同じだと思う。自分や人々のストーリーや歴史を通して学び、今より成長した自分になってみるということなんじゃないだろうか。

その上、私の一つの変な習慣は、学歴があまり高くない人と話している場合に、質問をされないと、自分のことや考えなどあまりシェアしないということだ。その理由は軽蔑するためというよりも、私の話は結構つまらないので、会話をすぐ止めないように、話しすぎたくないわけだ。けれども、いつからか、相手のことを聞きながら、自分の経験とか思いとか気持ちをもう少しシェアしてみて、本当のインタラクションを作ってみるようになった。その結果はかなりいいと思う。なぜかと言うと、いつも他の人の経験に学んでもって、励ましてもらうし、少しだけだけれど、私の浅薄な経験やシェアリングにしてからが相手にとって励ましになり得るからだ。

一番面白い歴史の授業は多分教室の中のクラスじゃなくて、人々の人生のストーリーだ。論文や本から歴史を勉強出来ると同時に、自分と他の人の経験を通して、知識以外何か学ぶことが出来ると良いのだろうか?


結論:人々、それぞれな軌跡を探し始める
歴史を勉強しながら、各々の人は自分独自のストーリーがきっとあると信じている。人類の文明も人生も、過去から学んだことを載せて、舟のように前より良い将来へ徐々に進め。 さらに、ずっと前に読んだ「人生風景」という文学作品に書いてあったように、人生の味というのは自然な季節から人生の季節までなどの季節の詩意をそれぞれ感じることだ。

確かに、人生の季節に、それぞれの詩意があるはずだ。春のうちに、花のきれいさとか生命の盛り上がるほど生きる気持ちなどを徐々に感じると、元気で生きているわけだ。夏のうちに、太陽の強い光のように終われないほど燃える活力を持ったり、紺碧の海で人生の広さを感じたり、夜に蝉の鳴く声を聞きながら平和な夜を楽しんだりするべきだ。秋のうちに、豊作を収穫しながら、緑の世界が黄色や橙色になる景色を見ると、澄んだ心が出てくるんじゃないだろうか。冬のうちに、雪の中、風の中、季節と人生の極寒の大変さがだんだん分かってきた際に、春がもうすぐ来るという希望を守り続けることを学ぶはずだ。

歴史の勉強と自分の人生の思い出は、自分がだれか、今までどんな道を通してきたか、将来どんの方向へ行きたいかなどの質問について考えるにあたって、とても大切だろう。けれども、過去の思い出を大切にする人がいるし、一部の人は思い出を構成した過去だけで生きているが、他の極端な一部の人は理想や空想をもとに想像した将来で生きているが、何人がこの瞬間をちゃんと生きていられるのか?

現在を生きていないことには懐かしい歴史もきれいな将来も作ることができないんじゃないだろうか?

とにかく、私は人生や生活などについての考えを、毎週明るく書いているけど、よくちょっと心配している。なぜかと言うと、今は何でも書くのは簡単だが、将来理想的な人身になれるかどうかぜんぜん分からないからだ。なれないにしろ、嫌いな自分にならないで! どうせ、この作文はここで終わるけれど、人生を探すことはここから続けていくわけだ。


2015年3月27日にたいてい訂正し終わった
クリス ラウ

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