Wednesday, January 20, 2016

忙しい時(少し訂正した)

 最近、一月末のキリスト教の会議のために、仲間たちと色々な準備をしなければいけない。別に極めて大変なことじゃなくて、むしろ、瑣末で細かいことだ。

 仲間たちは「クリスの笑顔が子どもっぽくて、優しさが伝わるから、ゲストリレーションズの代表の一人と司会者をさせよう!」って言ったから、私がその二つの役をすることになった。(ばかばかしい顔で悪かったな・・・)忙しいことは忙しいけれど、その忙しさはいつでも仕事が大変で、寝る時間が全然ないというほどのものじゃない。ゲストリレーションズの役割は、会議の参加者に一人ずつ挨拶のメールをするとか、参加者の質問にメールで答えるとか、その他にも電車の駅からホテルまでのシャトレのスケジュールを手配したり、運転しない参加者の到着時間をメールで聞かなければいけない。一部の人はすぐ返事をしてくれたけれど、他の人は三回もメールしても、今まで返事がない。だから、寝る時間がないような忙しさじゃなくても、いつもメールをチェックして、だれかから返事をもらったらすぐ記録するようにしなければならない。時々胃がちょっと痛くなったりして、気掛かりになっちゃった。

 今日、友達が一つ不快なことを話してきて、私の自身の問題じゃないけれど、機嫌が悪くなった。それと同時に、我慢できなくて、腹が立った。まだ返事をしていない参加者に心の中でちょっと酷い文句を言っちゃった。「くそっ!一体こいつらは何をしてるの?!メールを三回もしたけど、まだ返事してない!本当に困るよ!人生の存在意義を三千字で説明しなさいなんて聞いてるんじゃないぞ。ただ一言で到着時間だけ知りたいんだよ!早く教えてくれえ!私たちは今週までに準備を終えなきゃいけないんだぞ!」って、心の中で叫んだ。

 久しぶりに出会った怒りだ。

 多分この一ヶ月か二ヶ月間に積み上げてきたストレスや、不確かな将来への心配や、会議を用意する責任など色々なことからか、めったに出るかんしゃくが一瞬洪水のように湧いてきた。もちろん狂人のようにどこでも叫んだりだれでも叱ったりすることはもちろんしなかったけれど、持っている怒りの強い感情をよく感じた。

 おかげさまで、怒りの気持ちをすぐ解消して、ついに落ち着いた。だが、この感情の危機を通して、一つの反省が閃いた。

 教会のメンバーや学生として、「ある牧師やある先生(特に大学の教授)はいつも仕事指向で、本当の人間への関心をあまり持ってない」っていう批判をとってもしやすい。だが、今度自身こそさまつな管理のことを負ったら、仕事中心のみならず、堪忍袋の緒も切れた。

 毎週も教会に行って、賛美するとき、何百回ともなく「イエスのために、自分が持っている時間や才能や関心などを少なくてもすべてイエスにささげる!」と歌ったり語ったりしていたのに。「イエス!私が思えなくて、身に余る恵みをいつももらっていて、ありがたく思ってる!もし私が何かをして貢献できる場合があると、どうぞ私をある人たちに行かせてください!私が不器用な人だけれど、できるだけ、少ししかないにしろ、周りの人の祝福になりたい!」って祈っていたのに。

 キリスト教の会議についての準備に加わらせてもらったのは、自分が祈ったことだろう?うん、そうだね。イエスのことをもっと求めたい参加者を連絡したり助けたりするのも、「人の祝福になりたい」というお祈りが叶ったことなんじゃないだろう?うん、確かにこれもそうだね。そうはいっても、なぜ忍耐心がこんなに薄れたの?分からない。

 ひょっとしたら、行政や管理のようなことは、謎めいた力を持っている。人々に初心とか情熱とか抱負を忘れさせる一方で、仕事を繰り返されるものにさせるという魔法なんじゃないだろう。知らず知らず、我々はある曖昧な切ない喪失感の中に沈めつつ、初志をすっかり失っちゃう。

 もちろん、これは全て管理のことのせいだというわけじゃない。私自身も責任を持っているとはっきり分かってる。そもそも気が短くて、かなり自己中心的なやつだ。この数年色々経験して成長して、少しずつよくなってきた割に、嫌いな管理のことを負ったとき、うんざりしやすいし、やはり前の個性が出てきちゃった。

 とはいえ、自分が成長した歩幅を感じたと思う。まず、自身の問題に気づいたことだ。確かに今まで私が色々な弱点を改善すべきだが、その問題を先に見つけなかったら、なにもできないだろう。次に、管理や行政を仕事の一部にする人のことを、より少し分かってきたような気がする。前に書いた通り、管理についての責任があまりない教会のメンバーや学生にとって、「もう、ある牧師やある先生が、いつも仕事指向ばっかりだ。これはいけないだろう」って言いやすい。行政についての仕事のストレスを感じたことがあまりないから。もちろん、これは自分が今日カンカンに怒っちゃったことに対しての言い訳じゃない。ただ、人々の気持ちがより理解できるようになったら、思いやりがある人になる第一歩なのではあるまいか。

 そして、最近色々なあがきを通して分かってきたことの一つは、成長のために一生懸命進んでいくべきだが、自分に適切な時間と空間をあげた方がいいということだ。つまずくことはおそらくだれも経験したくないことだろう。とはいうものの、人生はいずれ、迷子になり、こわいと感じても、もったいないことにきっとならない。闇の中で道を探しながら、本当の自分を発見できるかもしれない。さらに、迷子になったことが全然なければ、もしかしたら繰り返されるものにすぎないだろう。

 ところで、幸いなことに、今日憤ったけれど、イエスが恵みや憐れみがあふれる神さまだから、よろめくにしろ、まだ立ち上がって明るい方向に歩んでいけるに違いない。

 また、二人の日本語の授業の後輩のおかげで、ガラクタのような今日には喜んだこともあった。午後、怒気がだんだん解消してから、一人の日本語の授業の後輩のSさんに出会った。あいさつをして、「ラウさん、今週日本語の試験があるんだけど、練習してくれませんか?」って彼女は聞いた。Sさんは一見非常に静かな人なんだけれど、信頼できる関係を作ったら、色々話せる人だ。「うん、いいよ!いつ練習したいの?」って考えなくても答えた。それで、今晩他の後輩のBさんと晩ご飯を食べているとき、「クリスさん、冬休みにうちに帰ったから、日本語をすっかり忘れちゃったけど・・・」って後輩に言われた。同じ答えをした。管理のことよりも、むしろ、本当の人間が見えるし、一対一や小さいグループの対話の方がずっと好きだ。実は私は先生じゃなくて、日本語があまり上手じゃないから、私と練習してもあまり役に立たないような気がする。何もないよりましだかな。けれど、後輩たちに頼まれて、私にとって誠に光栄だ。

 いうまでもなく、私たちはロボットじゃなくて、人間だから、適当に休まなくてはならない。もし二十人の後輩が練習したいと言ったら(こういうことが起こる可能性がないけど)、たとえ私がいかに練習してあげたくても無理だろう。と言っても、自分ができる限り、何とかしてあげてみたい。なぜなら、自分が好きじゃない人間味がない人に絶対になりたくないから。この世界に、自分の仕事や名声や利益だけを絞る人がきっといる。日本研究の学者になれないよりも、そういう冷たい人間になってしまう方が、絶対に嫌だ。この信念をちゃんと守るためには、将来を計画するだけでなく、今も信念に合った行動を取るべきだと思う。

 まあ、休んでいるときにしか経験できないことがあれば、忙しいときにしか発見できないこともある。特に、自分には他の人よりも色々な面があるように思う。

 これからの自分自身の成長も、待ち望んでる。


2016年1月19日に書いた
2016年1月20日に少し訂正した

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