「来学期も、ペラペラ話す会を続けたいよ。」って、昨夜日本語の後輩のBさんと晩ご飯を食べながら私は言った。
「へえー、本当?いいね!」って、Bさんは喜んで、そう言ってくれた。
前学期、日本語の授業には特別なプロジェクトがあった。日本語を通して、何かのコミュニティと繋がりを築いて、できるだけ貢献するというプロジェクトだ。最初は勉強会をしようとしたが、怠けものの私は勉強会じゃちょっとつまらないからと思って、このアイデアはすぐ止めた。その代わりに、この数年たくさん話すようになった私の個性に合う計画を考えた。それは「ペラペラ話す会」というグループだ。二週間に一回、学食で晩ご飯を食べながら、来てくれる後輩たちと日本語で楽しく話すというものだ。試験の前に、質問がある後輩たちと復習もしたけど、このプロジェクトは主に日本語の楽しむためのものだ。
このプロジェクトをするきっかけを説明して、「皆と話しあってもらって、本当に楽しかったから、来学期も続けることにした。」って私は言った。
「私も、勉強会よりもペラペラ話す会の形式のほうが好きだよ!その方が楽しい。先輩は優しいね。日本語をいつも練習させてくれて、どうもありがとう!」ってBさんは言ってくれた。実のところ、私は何もしてあげなかったけど、Bさんの眼差しは感謝の気持ちを物語っていた。その瞬間、「うん、やりがいがある!」って強く心に感じた。
実は、ペラペラ話す会をやるのは大したことじゃないし、もちろん、謝礼を求めるわけじゃない。とはいうものの、Bさんの真摯な謝意が伝わった時、やっぱり感動して、やる気がもっと湧いてきた。自身が本当に大事なことをしてあげたわけではなかったのに。
ちょっと考えると、逆も同じだろう。私たちが他の人に何かをしてもらった時も、感謝の心を持つべきなんじゃないだろうか。相手が何かしてくれるということは、とんでもなくありがたいことだからだ。私はこのことをまだ学んでいる途中だけれど、前より少し成長してきたような気がする。日本語と英語で書いた作文を読みたがっている人には、メールで送る時「読んでもらえるとうれしいですが、読まなくても本当は大丈夫ですよ」みたいな文を書くようにしている。なぜかというと、二つの言語とも私の母語じゃないから、作文が決して詩のようにきれいなものじゃないし、相手が私のものを読んでくれる責任が全然ないからだ。
それに、一部のもらった恩は一見あまり大したことじゃないみたいだが、思うに、このような批判をしない方がいい。一方、相手がそうする義務は本当はなくて、当たり前のことじゃないからだ。さらに、人々は自分しか分からない辛い戦いを経験しているかもしれない。つまり、ささいなことみたいな恩にしろ、相手から時間などどれぐらいかかったかが分からないということだ。
そういえば、ある聖書の中のストーリーを急に思い出した。
「イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。」マルコによる福音書
12:41-44
母方のばあちゃんには一つの面白い習慣がある。特に冬の頃、厚い服や靴下を買ってくれるということだ。留学する前に、ばあちゃんからそういうものを「もらった」時、「もう、冬服が十分だって何回も言ったのに、また買ってくれた・・・こういうスタイルの服を着るわけがちっともないだろう。しょうがないな。」って思った。だが、私が留学して毎年一回や二回しか香港に帰れないようになってから、ばあちゃんは特別な習慣をそのまま保っているけれど、その習慣に対して私の態度は変わってきた。もちろん、その服を着ることは全然受け入れられないけど、ばあちゃんに嬉しい顔をしながら、「おばあちゃん、ありがとう!」って言うようにしている。「ばあちゃんがそうしてくれるのは私を大切にして、気遣ってくれてるからだ」と心でだんだん分かってきたからだ。
心から「ありがとう」を言うことをケチらない方がいい。感謝の気持ちさえ持てば、自分の人生の境界を広げて、目に見えないことでにも気づいて、そして、もっと広い世界が目に入るようになれるんじゃないだろう。
2016年1月20日に書いて、だいたい訂正した
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