恩賜 自分の価値
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前天晚上,回到久遺了的週三晚崇拜。當晚,是一位很有講道恩賜的神學生分享信息,主題為”Gifts and the Body of Christ”,即我們的恩賜與基督的身體(意謂教會)。有兩個訊息也很深刻。其一,不要輕看自己從上帝而來的恩賜與才幹,也不需要跟別人去比較,因為每人都是上帝的創造,我們活著都有價值。其二,”God does not always call the ‘qualified,’ but He always qualifies the called”,就是說,上帝不是常常呼召那些有資格的人,而是訓練祂所揀選的人成為有資格的人。
的確,各人才幹不同,有時心底裡難免有些比較。但只要按著恩賜,回應從祂而來的呼召,哪怕只是邀請別人一起禱告、說一句鼓勵的話、又或任何一個微小的行動,在上帝眼中也同樣具有價值,在別人身上也同樣化為祝福。最近在學習,答應為別人代禱後,立即與對方一起祈禱,免得很快把承諾忘記了。由於一直習慣用中文祈禱,現在使用英文,總是結結巴巴的。但朋友們都不介意,並告訴我,她們得著很大的鼓勵。我想,從心出發,別人是會感受得到的。
一昨日の晩、教会の水曜日の礼拝に行った。去年、プリンストンに着いた時、その礼拝に行ったけど、後で、時間があまりなかったから、だんだん日曜日の晩の礼拝だけ行った。でも、今夏休みだから、日曜日の晩の礼拝がない。
その晩、神学生がした説教は、私たちのイエスにいただいた才能と賜物だった。その神学生の説教は、いつも洞察力があって、意味が多くある。その説教は一番素敵な教えることが二つあると思う。第一、自分の才能を見下してはいけなく、自分の価値と才能を他の人と比しない方がいい。第二、「God does not always call the “qualified,” but He always qualifies the called」という言葉だ。
確かに、よく、私たちは自分が持っている才能によって、自分の人生の価値を計ると思っているけど、人々は神の創造で、イエスが私たちのために十字架で犠牲したから、価値が同じだ。もちろん、私たちの才能が違うのに、もし人々は、自分の才能を使って、他の人を助けたら、違う才能があることはいい利点である。しかし、他の人と価値や意味の比較は全然要らない。
子供の頃から、私は成績があまり悪くなかったので、何人かのおじさんやおばさんは、自分の子供の前に、クリスちゃんは頭がとてもよくて、勉強が上手で、ご両親は幸せで、もし私の子供はクリスちゃんのような賢かったら、信じられなくいいと私と両親に言った。実は、その人たちは私の勉強と研究の内容があまり分からないけど、私が大学生と大学院生だから、いつも私は素晴らしいと思っている。けれども、もし私の才能は勉強じゃなかったら、その言葉を聞けるか分からなく、たくさんの人は学力を大切にしすぎるということだから。勉強を感心することは全然悪くないけど、何人かの人は、ただ学歴だけ感心して、勉強の意味や、学生の社会への約束や、自分の子供の他の才能が大切じゃないと思っているかもしれない。
そして、その神学生は、もし何人かの人の才能を感心したら、褒め言葉を言って下さいと教えた。礼拝の後で、私の隣に座っていた友達は、クリスさんがFBで書いた記事は影響力と意味がたくさんあると私に言った。聞いて、嬉しかった。
実は、私は広東語も日本語も、話す方が、書くより下手だ。よく、書いた記事がよくないと思って、自分の書くことの意味がちょっと分からないけど、友達に励ましをもらって、継続的に執筆の自信が多くなった。
私は話すことがあまりよくないけど、歴史の学生だから、よく、知った人の過去が現在への影響をちょっと見られるので、一緒に祈りに友達を招待して、友達の過去の心の傷や負担を祈って、イエスからの治すことを求める。というのは、ただ過去の悲しみや傷がだんだん治った後で、将来へ希望を持って、元気に行けると信じる。私は治すことが出来なく、時間がかかるけど、イエスは絶対に出来る。それで、いくつかの祈りが、すぐの効果を多分見られないのに、将来だんだん見られると信じる。
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