最近、香港の親友のRさんは、一つの日本についてのニュースをメールで送ってくれた。そして、私は専門を日本研究に変えたくなったことをRさんに知らせた。Rさんはびっくりしながら、「へえー本当?すごいね!最近、きみは忙しくて、かなり大変だよね。私はいつものようにきみのために祈ってるよ。」って書いてくれた。
キリスト教徒としての私はよく「あなたのために祈ろう」って約束するけれども、恥ずかしいことに、忘れちゃった場合の方が多い。ごく最近、少しずつ覚えるようになってきた。色々な理由の一つは、いつも祈ってくれる友達がいるからだ。まれに祈りの一つや二つのお願いについて、本当に毎日祈っていた。
一)ある天地方向の木
面白いことに、キリスト教は「色々なルールがあるから、信じちゃったら、教会に行くべきだから、日曜日の朝の時間から、生活の自由まで失うよ」って思われている。とはいうものの、本当は私の信仰が繋がりを中心にしている信仰だと思う。まず、イエスと人間の関係だ。キリスト教が中心にしている信念の一つは、「イエスは私たちを罪から救って、神さまと繋げ直すために、この世に来た。人間の姿になって、人間の私たちの喜びをはじめ痛みや悩みや悔いなどのことを体験して、最後に、私たちの罪を自分の身に負い、十字架にかかって、自分の命を供えた」ということだ。したがって、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」(イザヤ書 53:4-6)
言い替えるなら、イエスは先ずもって私の世界に来てくれて、私を呼んで探して、愛を示しながら、まるでお父さんのように、私の手を握って、イエスの方に導いてくれる。もちろん、人間は誰でも、この命の最後には他界するのが当たり前だ。しかし、前に書いたその「方向」とは、天国だけではなくて、父の子供として、今の人生が成長していくとか、挑戦を受けて前の自分を越えていくとか、人生の色々なことを体験していくとか、周りの人がお互いに助けて上がることなども含んでいる。それと同時に、人生はそれぞれ存在する意味を実感できるんだ。そして、人生のそれぞれの季節にも、イエスが私の親友と牧人としてずっと伴ってくれると信じてる。
色々な愛と恵みをもらっているから、こちらも、周りの人を大切にして、優しくすべきだとだんだん感じてきた。確かに、この世には様々な問題がある。テレビをつけても、新聞紙をめくっても、国内にしろ、海外にしろ、怖い事件、悲しいこと、毎日もありすぎるような気がする。もしこういう新聞が自分とあまり関係ないと思ったら、周りの人たちを見てみて、生活に対してのありすぎるプレッシャーから、家庭問題、自分の将来に対しての不明確な感じ、病気、存在する価値を失うという絶望的な気持まで、数限りない深刻なことがあるとはっきり見える。そういうことを言うと、ある一つの質問が多くの人々の頭に浮かんでくるかもしれない。「神さまが私たちを愛しているなら、どうして色々なひどいことが起こるのを許したの」って。それぞれの神学者が色々な神学理論や解釈について研究して、答えを探している。私は神学者じゃなくて、怠けすぎる信者だけだけど、この傷だらけの世界はイエスが持っているつもりではないから、イエスが来てくれたり、希望を与えたりした。それで、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」って教えてくれた。
これは、ただのルールじゃなくて、イエスがまず自分で行ったから、愛を伝えて、私たちの心を打つというわけだ。
だから、大学院をちゃんと卒業して、日本研究の学者になるのが私の目標で、そのためにしっかりと頑張るべきだけれども、これは私の使命じゃない。できるだけ、一人でも多くの周りの人に、イエスからもらった繋がりや愛や喜びや恵みや希望を、話だけじゃなくて、行動で共有したいと思う。どうせ、お金や名声や権力や出版されたもののような大切に見えることは、私が死んでしまえば、いっさいは無になるに決まっている。愛だけ、恩送りで永遠までずっと残っているだけじゃなくて、人々に広がっていく。
恥ずかしいことに、現在の私はその使命までの距離は、まだ香港からアメリカまでの距離よりも遠い。だが、それは私が人生の中で、一歩一歩進んで行きたい方向だ。
二)ある水平な木
次に、人間関係だ。数年前の私にとって、信仰はもっぱら個人的なことだったから、自分一人でちゃんと聖書やキリスト教の本を読んで、毎日祈ったら、他の信者と繋がらなくても、全然大丈夫だ。それと同時に、そのころの私にとって、いわゆる一番理想的な人間関係は、強い絆をあまり作らず、お互いが持つ責任をなるべく減らすようにした方がいい。親しい関係を築いたら、お互いにめんどくさい責任や義務が付いてしまうと思っちゃったからだ。
とはいうものの、手短に言えば、後に色々なことを経験すればするほど、過去より自分のライフストーリーが少しずつ豊かになったし、人間とは自分と家族だけで生きられるにせよ、あるはずの富んだ色彩をすっきり体験できなくなるとだんだん腑に落ちてきた。友達や仲間は、相互補助の関係なので、聞いてもらう一方で、相手のことも聞いてあげるべきだし、大変な時に何かをしてもらうかたわら、相手が大変な時にも何かをしてあげてみるべきだということだ。とはいっても、これを義務にしか思えなかったら、かなり大変みたいだ。なぜなら、もし絆を義務や責任感だけで繋げれば、そもそも色々な責任がある人生をもっと重いことにするからだ。むしろ、結びつきを大切にするなら、実際に何かして助けられなくても、せめて慰めや温もりを届けたいという気持ちなのではあるまいか。
昨日の朝、かあさんが急に私にメールをして、「今、私たちに電話する時間があるの?」って聞いた。時計を見ると、バスが15分後に来る予定だったため、少しだけ話そうと思ったけれど、かあさんがそう聞いたのには理由がある。私たちの教会の友達が家にパーティーをしに来て、私の親友のRさんも来てくれた。この数ケ月、Rさんに大変なことがあって、ある間に無頓着して、この間思い切って難しい決定をして、いささか不安だと感じちゃった。「どうしようかな?次のバスは45分後で遅いな・・・でも、友達がかわいそう・・・」って考えてた末にRさんに電話した。色々聞いて、話して、一緒に祈った。そうして、一時間ぐらい話し合った。次のバスにもさようならした。
実は私がRさんにしたことはちっとも偉くなくて、ささいなことに過ぎないので、自慢ことは全くない。この経験を通して言いたいことは、つながりの不思議さだ。確かに、電話をしようかしまいかをちょっとためらったが、二つのことを思い出して、できるだけ友達を気に掛けるべきだとやっと気づいた。一つ目は自分の最近の経験だ。専門を変えてみた事件のせいで、精神的に心がちょっと疲れた。ある時、ふと「もしかして、そもそも何も言わずに、元の専門をおとなしく研究し続けた方がいいかもしれない。せめて、自分を今の嵐の中に押し込ませない」って思っちゃった。もちろん、本当に一瞬だけ諦めたい想いで、「前の専門のままでも、きっとうれしくならない」とすぐ分かって、気分が転換した。この間、何人かの友達と人生の先輩に色々してもらったり、応援してもらったり、思いやって励ましてもらってから、感動したと共に、勇気とやる気も出てきた。
もう一つは、Rさんがしてくれたことだ。一年半前に、香港にいるばあちゃんが他界した。アメリカにいる私は、言葉で表せないほど後悔して本当に辛かった。その時、Rさんは思いやりの言葉をたくさん書いてくれたり、何回も祈ってくれたり、支えてくれたりしてくれた。Rさんをはじめ、家族と色々な友達のおかげで私は気がだんだん楽になってきた。
色々してもらったことを思い出してから、もしRさんに電話しなければ、私は最低のダメ人間になるに違いない。
また、そう考えると、つながりを大切に保つことは、学校の授業で勉強する代わりに、むしろ、人生を一日一日過ごした経験から、少しずつ体験してきて、学んでゆくことなんじゃないだろう。聖書に書いてある、「私たちが愛し合うのは、神がまず私たちを愛してくださったからである。」(ヨハネの第一の手紙4:19)という文の意味と全く一緒だ。
言い替えれば、人間の心を一番根本的に変えることは、ルールじゃなく繋がりから、自然にぼちぼち届いてくるということだ。
そう言えば、教育はいい比喩になれるかもしれない。二十三年間に、私が学生としての経験の中で、最も成功した先生は、先生という支配者が持っている、学生を処罰する権限や、学生を叱る権力だけを使い、学生に毎日勉強させている先生ではないに決まっている。そういう高圧的な方法で、学生は先生に叱られないように毎日ちゃんと勉強していても、これは本当の成功じゃない。その代わりに、先生自身の情熱や、学生への関心などの個人的な特質、そして、適当な教え方を通して、学生にまるで感電させるように、勉強から人生まで、様々な影響を及ぼす先生は、最高の成功だ。そういう先生から影響を受けた学生は、勉強させられないにしろ、まだ知識に興味や好奇心を持ちつつ、自分で色々探して、学習を楽しめるようになる。もちろん、必要な時に、厳しくするのは先生の責任の一つだと言える。しかし、権力指向か情熱指向のどちらかによって、結局のところ影響力の程度は違う。後者は、及ぼす影響が一生残り得ると言える。
三)祈る意味
前の二つのセクションに変みたいな副題を書いたが、十字架の形の意味を表したんじゃないかと思う。天地方向の木は、イエスと人間の繋がりを表す一方で、水平な木は人間の間の絆を象徴するというわけだ。そして、どんな関係を問わず、絆を保つために、会話を通してお互いに理解し合うべきだから、祈るのも一緒だ。
ところで、この複雑な世界で、私にとって不可解なことがたくさん起こっている。一部の人に何かして、少しでも助けてみたいけれども、自分の力がとても有限で、ほとんどんの場合にも、祈ることと聞くことだけできる。とはいうものの、これは他のできることがないから、仕方がなくて、祈ることにしようというわけではなくて、よい影響を与えることができると信じているから、イエスと話すこと、つまり、祈ることにする。ただ、もらう恵みは必ずしもいつも願ってたことじゃなくて、よく、思えなかった少し不思議だ。
例えば、私が最近過ごしたことだ。前に、一月の試験が延期される可能性があったので、心で「じゃあ、冬休みに香港に帰れるといいね!」って祈ったけれど、結局のところに、色々な不定なことがまだ決まっていなかったから、帰れないことになった。期待を裏切られたような気がしたけど、大切な絆をはじめ、イギリス人たちと過ごしたクリスマスなど、いろんな思えなかったことを体験して、恵みをいっぱいもらった。それに、プリンストンのタイムゾーンはまだ大晦日だけど、香港のタイムゾーンは正月がもう来た。今朝、香港の家族と親友から、色々お礼の言葉や励ましをもらって、2月に会うのをもっと楽しみにしてる!
奇跡は色々な種類があるかもしれない。心の気持ちが楽天的になって、試練の中で、平和や希望や勇気が出てきて、試練を生き抜くのも、その中の一つだと信じてる。
これから、人生について学ばなければいけないことがまだ数限りないけれど、自分に合う道を辿りつつ、だんだん成長してきた。そして、イエス、それと共に、今まで出会った一部の優しい友達と仲間のおかげで、「この場合に何かをしてあげるべきだけど、他のことの方がしたいな」っていう気持ちといささか激しく対峙しないでもないけれど、自分が計り知れない恵みをもらってきたから、「今」は恩返しより時間を使って、たとえ少しだけでも何かをしてあげるように心がけている。「一緒に祈らせてもらえない?」って聞いて、支え祈るのも、そのうちの一つだ。
いつからかを忘れちゃったけど、2015年12月31日に書き終えた
次に、人間関係だ。数年前の私にとって、信仰はもっぱら個人的なことだったから、自分一人でちゃんと聖書やキリスト教の本を読んで、毎日祈ったら、他の信者と繋がらなくても、全然大丈夫だ。それと同時に、そのころの私にとって、いわゆる一番理想的な人間関係は、強い絆をあまり作らず、お互いが持つ責任をなるべく減らすようにした方がいい。親しい関係を築いたら、お互いにめんどくさい責任や義務が付いてしまうと思っちゃったからだ。
とはいうものの、手短に言えば、後に色々なことを経験すればするほど、過去より自分のライフストーリーが少しずつ豊かになったし、人間とは自分と家族だけで生きられるにせよ、あるはずの富んだ色彩をすっきり体験できなくなるとだんだん腑に落ちてきた。友達や仲間は、相互補助の関係なので、聞いてもらう一方で、相手のことも聞いてあげるべきだし、大変な時に何かをしてもらうかたわら、相手が大変な時にも何かをしてあげてみるべきだということだ。とはいっても、これを義務にしか思えなかったら、かなり大変みたいだ。なぜなら、もし絆を義務や責任感だけで繋げれば、そもそも色々な責任がある人生をもっと重いことにするからだ。むしろ、結びつきを大切にするなら、実際に何かして助けられなくても、せめて慰めや温もりを届けたいという気持ちなのではあるまいか。
昨日の朝、かあさんが急に私にメールをして、「今、私たちに電話する時間があるの?」って聞いた。時計を見ると、バスが15分後に来る予定だったため、少しだけ話そうと思ったけれど、かあさんがそう聞いたのには理由がある。私たちの教会の友達が家にパーティーをしに来て、私の親友のRさんも来てくれた。この数ケ月、Rさんに大変なことがあって、ある間に無頓着して、この間思い切って難しい決定をして、いささか不安だと感じちゃった。「どうしようかな?次のバスは45分後で遅いな・・・でも、友達がかわいそう・・・」って考えてた末にRさんに電話した。色々聞いて、話して、一緒に祈った。そうして、一時間ぐらい話し合った。次のバスにもさようならした。
実は私がRさんにしたことはちっとも偉くなくて、ささいなことに過ぎないので、自慢ことは全くない。この経験を通して言いたいことは、つながりの不思議さだ。確かに、電話をしようかしまいかをちょっとためらったが、二つのことを思い出して、できるだけ友達を気に掛けるべきだとやっと気づいた。一つ目は自分の最近の経験だ。専門を変えてみた事件のせいで、精神的に心がちょっと疲れた。ある時、ふと「もしかして、そもそも何も言わずに、元の専門をおとなしく研究し続けた方がいいかもしれない。せめて、自分を今の嵐の中に押し込ませない」って思っちゃった。もちろん、本当に一瞬だけ諦めたい想いで、「前の専門のままでも、きっとうれしくならない」とすぐ分かって、気分が転換した。この間、何人かの友達と人生の先輩に色々してもらったり、応援してもらったり、思いやって励ましてもらってから、感動したと共に、勇気とやる気も出てきた。
もう一つは、Rさんがしてくれたことだ。一年半前に、香港にいるばあちゃんが他界した。アメリカにいる私は、言葉で表せないほど後悔して本当に辛かった。その時、Rさんは思いやりの言葉をたくさん書いてくれたり、何回も祈ってくれたり、支えてくれたりしてくれた。Rさんをはじめ、家族と色々な友達のおかげで私は気がだんだん楽になってきた。
色々してもらったことを思い出してから、もしRさんに電話しなければ、私は最低のダメ人間になるに違いない。
また、そう考えると、つながりを大切に保つことは、学校の授業で勉強する代わりに、むしろ、人生を一日一日過ごした経験から、少しずつ体験してきて、学んでゆくことなんじゃないだろう。聖書に書いてある、「私たちが愛し合うのは、神がまず私たちを愛してくださったからである。」(ヨハネの第一の手紙4:19)という文の意味と全く一緒だ。
言い替えれば、人間の心を一番根本的に変えることは、ルールじゃなく繋がりから、自然にぼちぼち届いてくるということだ。
そう言えば、教育はいい比喩になれるかもしれない。二十三年間に、私が学生としての経験の中で、最も成功した先生は、先生という支配者が持っている、学生を処罰する権限や、学生を叱る権力だけを使い、学生に毎日勉強させている先生ではないに決まっている。そういう高圧的な方法で、学生は先生に叱られないように毎日ちゃんと勉強していても、これは本当の成功じゃない。その代わりに、先生自身の情熱や、学生への関心などの個人的な特質、そして、適当な教え方を通して、学生にまるで感電させるように、勉強から人生まで、様々な影響を及ぼす先生は、最高の成功だ。そういう先生から影響を受けた学生は、勉強させられないにしろ、まだ知識に興味や好奇心を持ちつつ、自分で色々探して、学習を楽しめるようになる。もちろん、必要な時に、厳しくするのは先生の責任の一つだと言える。しかし、権力指向か情熱指向のどちらかによって、結局のところ影響力の程度は違う。後者は、及ぼす影響が一生残り得ると言える。
三)祈る意味
前の二つのセクションに変みたいな副題を書いたが、十字架の形の意味を表したんじゃないかと思う。天地方向の木は、イエスと人間の繋がりを表す一方で、水平な木は人間の間の絆を象徴するというわけだ。そして、どんな関係を問わず、絆を保つために、会話を通してお互いに理解し合うべきだから、祈るのも一緒だ。
ところで、この複雑な世界で、私にとって不可解なことがたくさん起こっている。一部の人に何かして、少しでも助けてみたいけれども、自分の力がとても有限で、ほとんどんの場合にも、祈ることと聞くことだけできる。とはいうものの、これは他のできることがないから、仕方がなくて、祈ることにしようというわけではなくて、よい影響を与えることができると信じているから、イエスと話すこと、つまり、祈ることにする。ただ、もらう恵みは必ずしもいつも願ってたことじゃなくて、よく、思えなかった少し不思議だ。
例えば、私が最近過ごしたことだ。前に、一月の試験が延期される可能性があったので、心で「じゃあ、冬休みに香港に帰れるといいね!」って祈ったけれど、結局のところに、色々な不定なことがまだ決まっていなかったから、帰れないことになった。期待を裏切られたような気がしたけど、大切な絆をはじめ、イギリス人たちと過ごしたクリスマスなど、いろんな思えなかったことを体験して、恵みをいっぱいもらった。それに、プリンストンのタイムゾーンはまだ大晦日だけど、香港のタイムゾーンは正月がもう来た。今朝、香港の家族と親友から、色々お礼の言葉や励ましをもらって、2月に会うのをもっと楽しみにしてる!
奇跡は色々な種類があるかもしれない。心の気持ちが楽天的になって、試練の中で、平和や希望や勇気が出てきて、試練を生き抜くのも、その中の一つだと信じてる。
これから、人生について学ばなければいけないことがまだ数限りないけれど、自分に合う道を辿りつつ、だんだん成長してきた。そして、イエス、それと共に、今まで出会った一部の優しい友達と仲間のおかげで、「この場合に何かをしてあげるべきだけど、他のことの方がしたいな」っていう気持ちといささか激しく対峙しないでもないけれど、自分が計り知れない恵みをもらってきたから、「今」は恩返しより時間を使って、たとえ少しだけでも何かをしてあげるように心がけている。「一緒に祈らせてもらえない?」って聞いて、支え祈るのも、そのうちの一つだ。
いつからかを忘れちゃったけど、2015年12月31日に書き終えた
書きすぎて疲れたから、少しだけ訂正しました。
No comments:
Post a Comment